海外出張での出来事

海外出張での出来事や印象に残っていることです.思い出してみると,いろいろなことがありました.

パスポート紛失!

なんといっても,これが最大,そして今となっては,一番の思い出のエピソードです.

2010年12月,SIGGRAPH ASIA国際会議に参加するために,韓国のソウルへ出張で行きました.

前年の国際会議で,ソウル大の先生と研究の話をしていたことと,僕が当時研究していた曲線に興味があるというmailをくれていたので,羽田空港で「SIGGRAPH ASIAに行くから,会いませんか」とmailをしました.そうしたら,ソウル大に来て研究に関しての講演をしてくれと頼まれ,国際会議で使ったスライドはたくさんあったので,ノリで了解して,講演させて頂きました.

講演も無事終了し,国際会議も終わって,さぁ帰ろうとした土曜日の朝,ない!ない!パスポートがない!

土曜日の朝にも関わらずソウル大の先生を電話して起こして,わざわざ大学に来て頂いて,僕の訪れたところを全部探したけど,どこにもありませんでした.国際会議の会場にも行ってみたけど,みつからず.これは,もうあきらめて,月曜に大使館にいくことに.飛行機はたまたま変更可能な便を予約していて,月曜の16時頃の便に変更できました.いやこの時のショックといったら...

ホテルのフロントに,パスポートを紛失したので,延泊したい旨を伝えたら,紛失届をだすために警察を呼んでくれた.この時,僕は初めてパトカーに乗り,後部座席ではドアを外から開けてもらわないと出れないことを初めて知りました.無事に紛失届を取得.帰りもパトカーで送ってくれました.

翌日の日曜日は何もする気が起こらず,廃人のように過ごしていたように記憶しています.

月曜の朝,大使館に行きました.紛失届で,警察官の方が僕の誕生日の年月を間違えて記入していたのだけど,大使館の方曰く,よくあることとのことで,無事に,1回限り有効な渡航書を取得.ソウルの空港にお昼頃到着したので,カウンターで「16時の便なんですが,パスポートをなくしちゃったのでなるべく早い便に変えてもらえせんか」とダメもとで聞いてみる.そうしたら,今回だけですよと言われ,お昼ごろの便に.そして,なんとビジネスクラス(笑)

帰国後,しばらくしたら,ソウル大の先生から,僕の研究についてもっと知りたいので,招待するからもう一度ソウルに来てくれなかとのmailが来る.翌年の4月,もう一度ソウル大に行きました.

その後,共同研究で,CAGDに2本,CAD誌に1本の論文を出すことができました.思い出してみると,海外出張で,一番よかった思い出かも(笑).

パスポート紛失後のアメリカへの入国

パスポートをなくした翌年,アメリカへ入国する際に,シカゴ空港で呼び止められ,理由は告げられず(理由を教えてくださいと聞きましたが,答えられないと言われました),部屋で待機させられるということがありました.ソウルと台湾は普通に入国できていました.おそらくですが,なくしたパスポートには在外研究の時に取得したJ1ビザがあったことが理由かもしれません.

待機させられている間,ノートPCは没収されなかったので,共同研究者と話していた内容について発表スライドの修正をしていました.時間は正確に覚えていませんが,30分から40分くらいの待機後,無事入国できました.

待っていてくれていた共同研究者に,「いやぁ,さっき話していた内容のスライドの修正ができましたよ」と言ったら笑ってました.

こんな朝早くから"にこにこ"しているやつは日本人しかない

2010年,国際会議でアラブ首長国連邦に行った時のことです.ちゃんと覚えていないのですが,おそらく日本がサッカーのワールドカップで,デンマークに3対1で劇的な勝利をした後のことだっと思います.朝,6時頃だったと思うのですが目覚めて,ホテルのフロントに行ったら,突然,知らない人から,"Congratulations!"と言われびっくりする."How come you know I am a Japanese?"と聞くと,"こんな朝早くから"にこにこ"しているやつは日本人しかない"との返答が...よっぽど僕がにこにこしていたのでしょう.後から考えると,同じ会議に参加していた方だったのかもしれません.

会議が終了した日の夜に,何人かの先生と砂漠のツアーに行きました.そうしたら,そこに招待講演をされた非常に有名な先生も来られていて,僕に国際会議に参加していましたよね?と声をかけてくれ,いろいろ話をしました.その先生の招待講演を前のほうで聞いていたので,僕の顔を覚えていたのだと思う.

搭乗口のドアが閉まっていた!

いつだったか,そしてどこの空港だったのかも覚えていないのですが,アメリカの空港であったことだけは覚えています.

その時,飛行機の到着が遅れていて,出発時間も予定より遅れていました.ちょっと疲れていたので,席に腰かけて軽く寝入ってしまったら,なんと,みんなすでに搭乗を終えてしまっているようで,搭乗口のドアが閉まっていることに気づく.

あわてて,搭乗口に行き,この飛行機に乗る予定なんですけどと言ったら,まだ飛行機のドアは閉まっていなかったようで,搭乗口を開けてくれ無事に乗ることができました.いやぁ,乗れてよかった.

乗り換え時間が5分!

確かソルトレークの空港から,シカゴ空港経由で,カナダのWinnipeg空港に向かう時のことだったと思います.ソルトレークからの便が遅れて,シカゴ空港に到着したのが,Winnipegに行く便の出発予定時刻の5分前くらい(本当にこのくらいの時間だったと思う).もうこれは間に合わないかなと思ったら,なんと降りた便の目の前にWinnipegに行く便が.確か,タラップではなくどちらの便も階段で乗り降りをしたように記憶しています.無事乗ることができて,Winnipegでの待ち合わせにも間に合いました.

しかし!当然ですが,荷物をこの短時間に移動させることなんて不可能です.delayed baggageになり,しかも,問い合わせをしたら明後日の方向に向かう飛行機の機内にあるとのことで,翌々日くらいに送られてきたように思います.日用品は保険でカバーできるということだったので,必要な着衣などは保険で買ったように記憶しています.

危険な会話

在外研究記にも書きましたが,シカゴ空港で,ゲートFからゲートCへのShuttleバスを待っている時のことです.


バスから降りてきた乗客:  Where is Gate F?
空港の乗務員:                   F what?
バスから降りてきた乗客:  F10.
空港の乗務員:                   That’s over there.  Next to McDonalds. (だったかな?)
僕の隣のご年配の女性:   That’s a dangerous question to ask.

という会話がありました.失礼とは思いながら,爆笑してしまいました.
"F what?"というのは,ゲートFの何番と聞いてるのですが,Fは,fで始まる4文字のslangとも解釈できるので,"F what?"は"F*** what?"と解釈できるわけです.

HDMIで表示されない...

ハンガリーのEgerでの国際会議でのことです.朝一の発表だったので,自分の発表の前にある招待講演の30分以上前に到着して,いつものように接続テストをする予定でした.

しかし,久しぶりにいろいろな方にあって,知ってはいたけど初めて会う方などと挨拶をしていたら,あっという間に招待講演の時間になってしまい,接続テストができませんでした.

招待講演が終わり,慌てて接続テストをしましたが,Macだからなのかプロジェクタに表示されません.再起動をしてもダメ.講演の時間まで,あと数分.焦りました.

会議はZoomと対面のハイブリッドだったので,知り合いの先生のコンピュータをHDMIに接続させて頂き,自分の画面をZoomで共有させることでなんとか乗り切りました.助けて頂いた知り合いの先生に心から感謝です.

帰国後,大学でディスプレイにHDMIで接続しましたが普通に表示されました.相性だったのでしょうか.HDMIの接続アダプターは異なるものを2つくらい持っていったほうがよいのかもしれません.

入国審査で「食べ物はない?」「ないです」しかし...

在外研究中に,アラブ首長国連邦から大西洋を横断してアメリカに入国する時のことです.たしか,ダラス国際空港だったように記憶しています.大西洋を横断する便で,アメリカに入国するアジア人は僕くらいでほとんどいなかったように思います.

アメリカに入国をする際に,「食べ物は持っていないですね?」ときかれ「持っていないです」と答えました.スーツケースを確認したいと言われ,「どうぞ」と答え,スーツケースを開いたら,ポテトチップスのでかい袋が(笑).僕自身も入れてあること忘れていました.結局,そのまま閉じて,無事通過できました.ポテチはOKだったのかな.バナナなどはだめでしょうけど.

「知らぬが仏」は強し!

パリでの国際会議でのことです.僕は何も考えずに,空港からホテルまでのシャトルバスをWebから予約していました.後で知ったのですが,予約サイトでは,空港からバス会社に到着の電話を掛けなければならない,と書かれていたそうです.

そんなことはつゆ知らず,空港に到着した僕は,informationを見つけ(この時点でも電話をしなければならないことを知らず),シャトルバスの乗り場はどこですかと聞いたら,その方がバス会社に電話をしてくれ,エレベータで下がったところで待っていればバスが来るとのこと.本当にこの場所でいいのかなと,若干の不安を覚えながらも待っていると,バスが到着し,無事にホテルに着けました.

もし,空港から電話をしなければいけないと知っていたら,違う手段を選んでいたかもしれません.「知らぬが仏」は強し.

交差点で,"Professor Yoshida!"

確か,SIAMの国際会議で,オーランドに行った時のことだと思います.交差点を歩いていたら,知り合いの方(大学で博士号をとってSiemensの研究者になった)に,"Professor Yoshida!"と声をかけられてびっくりしました.たぶん,夕飯を食べに行く途中だったと思うのですが,まったく予想もしていない中で,声をかけられて,びっくりしました.

As the degree gets elevated ... 英語の言い回し

確か,ノルウェーのTonsbergでのCurves & Surfaces国際会議で発表をした時のことです.僕が,"As the degree gets elevated, the curve gets closer to a logarithmic spiral"(曲線の次数を高くすると,曲線は対数螺旋に近くなる)という説明を発表の中でしたら,座長の方が,発表後に"degree elevation"(次数上げ:専門用語で,次数を上げても曲線形状は変化しない)をしても曲線形状は変わらないのだからおかしいのではないかと指摘されました.

そうしたら,きちんと僕の発表を聞き理解してくれていた大御所の先生が,"He means the degree gets higher."と言ってくれ,座長の先生のコメントを抑えてくれました.

僕の説明をきちんと聞いて頂ければ理解できることだったと思うのですが,用語を単体でとると誤解をされかねない言い方だったのかなと思いました.でも何より,大御所の先生が,僕の説明の内容をきちんと理解してくれて,助け舟を出してくれたことがうれしかった.

左隣の席がプロバスケットボールプレイヤー

確か,フランクフルトからニースへ向かう飛行機だっと思います.飛行機に搭乗して,滑走路に向かう途中で,電気系統のトラブルがあって結構長い時間途中で止まっているということがありました.そこで,たまたま左の座席にいた人に,何があったんでしょうね,から話始めて,いろいろな話をしていたら,ロスアンゼルスのチームから,ニースのチームに移籍するプロのバスケットボールプレイヤーの方ということが分かりました.家族はまだロスアンゼルスだけれども,自分が先に到着して家を決めたり家具を揃えたりするとのこと.空港に着いたらチームの方が待っていると言っていました.

サインもらっておけばよかったなぁ.でも,フランクフルトからニースまでずっと話っぱなしだった.右隣の方は,脳科学者で国際会議で招待講演をされると言っていました.

隣の席の方が突然,"You must be a professor."

確かソルトレークの空港から,ワシントンのダレス空港へ向かう便の中でのことです.隣の席の方と話をしていたら,自分のことは何も話していないのに,"You must be a professor."と言われ,ちょっとびっくりしたことがありました.

当時,僕はUnitedのFrequent flyerで,(無料だったので)プレミアムエコノミーの席に座っていました.その方曰く,プレミアムエコノミーにはprofessorが多いから,そう言ってみたとのことでした.

その方も脳関係の学者の方で,ソルトレーク近くのスキーで有名なsnowbirdで開催された国際会議に参加されていたとのこと.なんと,昼にスキーをする時間があって,会議は夜遅くまでやるそう.うらやましい会議だ.

国際会議のconference dinnerで(1)

確か,ノルウェーのオスロでの国際会議のconfrence dinnerでのことです.その方,以前,筑波大にいたことがあるとのことで,我々が日本人であることもあり同じテーブルに来てくれたようです.

国際会議でのconference dinnerでは,本当にいろいろなことを話すのですが,この時,僕の中では,「マイナス×マイナスがなぜプラスになるのか」ということが頭の中にありました.この話をしたときに,その方はすぐに,「冷たい石が水の中に入っているとする.その石(水温よりも低いのでマイナス)を水から取り出す(入れるのがプラスなので,取り出すのはマイナス)と,水温が上がるから,プラスになる」という具体的な例を説明されました.共同研究者の先生曰く,こういう身近な具体例をぱっと出せる人は頭のいい方だとおっしゃていましたが,僕もそう思いました.

その後,マイナス×マイナスがプラスになることは,数学の公理から導けることを知りましたが,身近なことなどと対応関係があるからこそ,このことが意味を持つと感じた瞬間でした.

国際会議のconference dinnerで(2)

チェコのピルセン(ピルスナービールの発祥の地)の国際会議のconference dinnerでのことです.

ここでも,日本に滞在したことのある方がいて,Netflixのテラスハウスを英語の字幕で見ながら日本語を勉強しているとのこと.たまたま,僕もテラスハウスを少しみていたので,この話題で少しだけ盛り上がることができました.いや,まさか,国際会議のconference dinnerでテラスハウスの話がでてくるとは予想していませんでした.

テラスハウスを英語の字幕で見ると,日本語のこういう言い回しは,英語でこういうのか,というように勉強になります.こういう勉強の仕方もあるのかなと感じます(やってないけど).

知り合いだったの?いやっ初めて会いました

台湾での国際会議のことだっと思います.会議が始まる前の会場で,近くに座っていた方と何気なく話をしていたら,知り合いの先生に,「吉田先生知り合いだったの?」聞かれましたが,「いや,初めて会いました」と答えました.物怖じしないことだけが取り柄の僕は,初めてあっても,つい話しちゃうんです.

その時会場で話していた先生,何度か国際会議でお会いする機会があり,その何年か後に,どこかの空港での乗り換えの際にお会いした時に,もしまたsabbaticalの機会があったら僕のところに来なよと言ってくれました.これは,僕自身の能力というよりも,在外研究でいった先の先生の有名度のお陰だと思います.

敵は社外にはいない!

始めて参加したポルトガルでの国際会議でのことです.移動のバスで隣に座った方が,Silicon Graphicsの研究者の方でした.当時(1991年頃),Silicon Graphicsは無敵状態で,「ライバルは社外にはいない.社内の別のグループがライバルなんだ」と言われていたことが印象的で,今でも覚えています.

しかし,その後,Silicon Graphicsはダウンサイジングの波に乗り遅れ,今はなくなってしまいました.ただ,その遺伝子はNvidiaに引き継がれているのではと思います.

入国審査で日本語を話されると頭が追いつかない

記憶している限りで,空港の入国審査で,突然,日本語で話しかけられたことが2回あります.

1回は,アラブ首長国連邦で,入国審査の際に日本語で話しかけられて,頭が追いつかず,日本語であることを認識するのに一瞬の時間がかかったことを記憶しています.そもそも日本語を話す人がいないだろうと思っている中で,突然,日本語を話されるとびっくりします.

この入国審査官の方,確か武道か何かをやられて関係者に日本人がいて日本語を話すというようなことを言われていたように思います(この会話は英語だっと思います).

もう1回は,ソルトレーク空港だったと思います.何を話したかは忘れてしまいましたが,びっくりしたように記憶しています.

I'll give you a chance.

在外研究でアメリカへ行った時のことです.サンフランシスコ経由でソルトレイクに行く予定でしたが,サンフランシスコに到着する便が30分くらい遅れて到着したたため,到着してから,乗り換えの便までの時間が1時間を切ってしまいました.サンフランシスコでの入国審査は,審査官と軽い雑談をしてすぐに終わりました.税関を通過しなければならいので,baggageが出てくるのを待たなければいけないのですが,なかなか出てこない.次の出発便の出発25分前になってやっとbaggageが出てきて,税関を通過して,荷物をトランスファーの担当の方に渡したら,次の便の出発時間を確認して渋い顔をしました."I'll give you a chance."と言って,荷物を受け取ってくれました.
 乗り換えのためには,一度外にでて,再度セキュリテチェックを受けなければならなかったのですが,そこがまた長蛇の列.空港の係員の方に,急がなければならいのだけどと話したら,列の途中に入れてくれてほっとする.しかし,別の方が来られて,"I don't want this."と言われて,列から出されてしまいました.

そこで,再度,別の係官に再度,本当に急がなければならないんけどと言ってチケットを見せたら,Premierメンバーだったので,別のラインに並べることを教えてくれました.そちらは空いていて,比較的すぐにセキュリティを通過できました.さて,重い荷物を背負って,ダッシュで次の便の搭乗口に向かいました.もう搭乗が終わる直前で,"I made it!"と言ったら,"Made it."と繰り返して笑いながら受け付けてくれました.

しかし,ソルトレークでは,2つのbaggageのうち1つしか出てきませんでした.1つにコンピュータが入っていたので,セキュリティーチェックが間に合わなかったのだと思います.翌日の夜中に荷物が届きました.

国際会議の発表後に来たmailから(1)

アメリカのテキサス州のAustinでの国際会議でのことだったと思います.それほど聴衆は多くなく,20名いたかどうかだったように記憶しています.しかし,そこでの質疑は結構盛り上がり,ある方が「昔,自動車会社は空間曲線を直接デザインしようとしたが,難しすぎてやめてしまったことがある」というコメントをされていたことを今でも覚えています.この方,名前を聞いておけばよかった.誰だったのだろう.

この国際会議が終わって,しばらく経ってから,ある先生(論文は読んでいたので名前は知っていた)からmailが来て,発表が面白かったから資料を送ってくださいとの連絡がきました.その当時はまだ未発表だったので,論文掲載が決まってから,原稿をお送りしました.そうしたら,自分のところに招待するから,1週間くらい来ないかと誘って頂き,飛行機代とホテル代を持って頂き,滞在しました.

その後,共同で1本の論文を書くことができました.この先生はもう引退されていて,知り合ってもう15年以上になりますが,毎年連絡をとらせて頂いています.ありがたいことです.

国際会議の発表後に来たmailから(2)

チェコの国際会議で発表して,しばらくたってからのことでした.この国際会議に参加していた先生からmailが来て,その先生のところの博士課程の学生をインターンシップで送りたいとのmailが来ました.

彼は,僕の分野では最高レベルのJournalに論文があったので,履歴書を見る前に,OKと返事をしました.滞在した3カ月半,本当に一生懸命頑張ってくれ,その影響は,当時のゼミの学生にも大きく影響したように思います.ゼミの学生が,「言葉も通じない国にきて,朝から夜まで,こんなに一生懸命に研究する人がいるんだ」と言っていました.ほぼ毎日のように夜になって,僕の時間が空くと,"Professor Yoshida.  Do you have a minuite?"と声をかけてきて,まぁいつも1~2時間くらいは打合せをしていました.彼の指導教員の先生も含めて,共同で1本の論文を書くことができました.

その後,ハンガリーの国際会議に行き,彼や指導教員の先生にも会うことができました.

I know you from your paper.

チェコのピルセンでの国際会議のことです.そもそも,この国際会議に参加しようと思ったのは,共同研究者から,abstractの締め切り明日だけど,この会議よさそうじゃないと連絡があったことがきっかけでした.僕自身もよさそうだと思ったので,速攻で1,2ページのabstractを書いて,発表をすることにしました.

この会議,参加したアジア人は僕と共同研究者の2人だけという状況で,参加者に知り合いは誰もいないという状況でした.そういった中で,国際会議に参加したら,ある方に話しかけられ,"I know you from your paper."と言われ,具体的に僕のある論文を指摘してくれ,うれしく感じました.

共同研究者の先生も,以前,Curves & Surfacesで発表していましたよねと言われ,結構覚えられているんだなと思いました.

この国際会議のexcursionでピルセン(日本のビールのほとんどはピルスナービールで,ピルセンはピルスナービールの発祥の地)のビール工場に見学に行きました.そこで工場の方が説明をしていたのですが,僕は後ろのほうにいたので聞いていませんでした.そうしたら,会議の参加者が僕のところに来て,「この工場,日本のビール会社が買収したらしいよ」と.さっそく,説明している人のところに言って,「僕日本人なんだけど,本当に日本の会社が買収したの?」と聞いたら,「今年,アサヒビールが買収したのよ」と.いやぁ,これもびっくりしました.

花屋の親切な方

チェコのピルセンでの会議後に,プラハの空港へ向かう時のことです.

行きは電車でピルセンに行ったのですが,帰りはバスで空港に行くことにしました.空港へは,一度乗り換える必要があり,バスの乗り換え地点でのことです.ここで,英語での説明がなく,すべてチェコ語で書かれているよう.自販機の前で,どうしたらよいものかと悩んでいたら,近くの花屋の方がどうしたんだと声をかけてくれて,空港へ行きたいのですがと答えたら,チケットの買い方を教えてくれました.また,バスの乗り場も教えてくれました.ただ,チケットを買っている途中でいなくなってしまったので,間違えて2枚購入してしまいました.

でも,親切なこの方のお陰で,無事に空港につけました.

昔の空港

911の後,初めてアメリカに入国したときです.空港に銃を持った警備員がいて,入国時のセキュリティチェックでは,ベルトを外して靴も脱がなければならず,セキュリティが厳しくなっていることを感じました.最近では当たり前のことですが,以前では必要ありませんでした.

90年代,空港の出入りは自由で,友人とアメリカの空港で待ち合わせる際には,到着したゲートのすぐ前で待ち合わせることができました.成田空港もパスポートや搭乗券がなくても入れました.

一度セキュリティを上げてしまうと,下げるのは困難なのかもしれません.でも,「以前は必要なかった」ということを忘れないようにしたいと思うとともに,必要なかった時代を目指すことはできないのかとも思ってしまいます.